ここは、ultima-Thule Seminarと川北ゼミナールの休憩室です。


このページは、長崎に関するコラムのページです。お気に入りの写真を見ながら読んでみてください。

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アルバムの写真について

アルバムの写真について

 眼鏡橋が流される以前の昭和54年頃の長崎です。グラバー園がエスカレータの工事をしているときでした。
 リバーサルで撮った写真に比べて、ネガで撮った写真はやはり少し褪色しています。ご了承ください。全写真、CanonのA-1とFDレンズでとったものです。

長崎と私

長崎と私

 この写真の時は、3回目の長崎行でした。
 昭和49年冬に、世話になったある人を探して長崎に行ったのが始まりでした。結局見つかりませんでした。2年後、大学のクラブの後輩たちが佐賀で合宿していたので、それに参加した後、長崎に寄りました。このときも見つけられませんでした。
 そして、この写真の時、昭和54年。オリンパス0M-1からキャノンA-1に買い換えて、初めて長崎にカメラを持っていきました。そして、長崎駅を出て歩道橋を渡り終えたところで、5年間探していた人にやっと会うことができました。本当にバッタリという感じで会うことができました。バスに乗っていたので、話をすることはできませんでしたが、当初の目的は達成することができました。
 その日の夜、銅座町に飲みに行きました。私に付いたホステスとの会話は以下のようなものでした。「ご旅行ですか」「うん」「どちらから来られたのですか」「大阪から」「いやぁ、私も大阪だったんですよ。大阪のどちらですか」「豊中」「え〜、私も豊中だったんですよ。豊中のどこに住んでいらっしゃるんですか」「庄内」「えーっ! 庄内のどこ?」こんな感じだったのですが、よくよく聞いてみると、当時私の住んでいたアパートの隣のアパートに住んでいた人でした。世間は狭い、とよく言われますが、このときは本当にそう思いました。
 そして、アルバムのページにある写真のところをいろいろ周っているうちに、あるストリップ劇場の前に来ました。場所は、どこだったかなぁ。記憶が薄れているから…。そうしたら、呼び込みの兄ちゃんが「タウン誌の人?」と聞いてきたので、冗談でそうと答えると、中に無料で入れてくれて、いろいろ説明してくれました。別れ際に劇場の前で記念写真を撮りましたが、呼び込みのお兄さん、ごめんなさい、タウン誌というのは嘘でした。その写真も手元にありますが、ここには掲載していません。
 昭和49年の終わりから、大学のことや個人的なことでいろいろ心にわだかまりがあったりして、悩むことが多かったのですが、この長崎行の中で、大浦天主堂のステンドグラスを見て心が洗われる思いになり、小さな事で悩んでいた自分自身が馬鹿らしくなりました。それまでの悩みや思いがパァーッとどこかに飛んでいった感じでした。それ以来、長崎に行くことはなくなりました。
 あとになって、台風で眼鏡橋が流されたことを知って、写真に撮っておけばよかったと悔やんだのもいい想い出です。

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