ここは、ultima-Thule Seminarと川北ゼミナールの休憩室です。


このページは、香港に関するコラムのページです。お気に入りの写真を見ながら読んでみてください。

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アルバムの写真について

アルバムの写真について

 アルバムの写真は、2007年と2011年を対比させながら並べています。
 どちらの写真のときも、生徒が行きたいと申告してきたので、日程の半分は観光で、残りの半分は英語練習と文化の吸収に当てました。写真は観光の写真が多く、生徒の写っている写真はカットしてあります。香港には何度も行ってはいますが、カメラを持っていったのはこ2007年が初めてです。軽量デジタルカメラを購入して、卒業生を連れての香港でした。なにぶん初めてのデジカメで、ムービーを撮れることも卒業生に教わりました。
 2011年の時は、新たな発見をしました。トイレを探して尖沙咀の警察署前で警官に尋ねました。最初の警官は、公衆便所を意味するmen's roomが通じなくて、ビル内のトイレを意味するrest roomに切り替えたところ、restrauntを紹介してくれました。…発音が悪かったと反省しています…。2人目の警官は、メモ帳を出してきて筆談してくれましたが、rest roomと書くと、キャバレーのようなところを紹介してくれました??? 3人目の警官は、「Washroom?」と訊いてきたので、「Yeah!」と答えると、その場所を教えてくれましたが、その場所にはありませんでした??? 香港はイギリス領だったのでイギリス英語だと思っていたのに、アメリカ英語のwashroomと言われたことに驚きました。しかもアメリカ英語のrest roomやmen's roomは通じなかったのに、同じアメリカ英語のwashroomが通じるなんて一体どうなってるんでしょう。いつからアメリカ英語に切り替わったんでしょうか? 結局、近くのMiramarビルのrest roomで用を足しましたが、いい経験をしました。イギリス英語ではlavatoryが一般的ですが、ちょっと堅い言葉なのであまり使いません。昔、有名レストランで「トイレ(lavatory)はどこ?」と訊くと、冗談交じりに植木鉢のところに連れて行かれて「ここでしろ」と言われたことがあります。あのときは、アルコールの酔いも手伝って大笑いしたっけ。やっぱり素直にtoiletと言った方がよかったかな、と一つ勉強になりました。
 この2011年のときも、卒業生が行きたいと言ってきたので、卒業生2人を帯同しました。その最中、東北関東大震災が起こり、ホテルのテレビでもその模様が伝わってきました。香港の有名歌手数人が義捐金のためのチャリティ・コンサートを開いたことも報道されていました。うれしかったですねぇ。他国のためにいろいろな人が応援する、これが日本人ならばどうでしょうか。
 2日目、タクシーの運転手にお金を支払い、「Keep the change, please.」と言うと、「Are you Japanese, sir?」と聞いてきたので、「Yeah.」と答えると、料金はいらないと返してくれました。そこからは広東語で言われたのでよくわからなかったのですが、言葉の端々に「津波」という単語が聞こえました。尖閣問題があったので反日運動で石を投げられるかも知れないと思い、わざわざ髪を短く切って(10㎝カット!)香港に来ましたが、反日どころか逆に大震災のために一般の市民がここまで心を痛めてくれていることに、非常に感動しました。涙が出るほど、その心遣いがうれしかった。もちろん、その時のタクシー代は日本に帰ってきてすぐに寄付しました。運転手の名前を聞くのを忘れましたが、私だけではなく同行の卒業生2人もこのことは一生忘れないでしょう。
 2日目の夜に、卒業生の一人が「今日いろいろ回って思ったのは、日本人が非常に贅沢な暮らしをしていて、頑張っていないことがよくわかった。自分では頑張っていると思っても、こっちの人に比べたら全然頑張っていなかったと思う」と言ってきました。
 そして、3日目の夜にも言ってきました。「日本にいるときには自分がどれだけ贅沢で豊かな生活をしているかわからなかったけれど、こちらに来て自分がジコチューであることも贅沢な生活をしていることもよくわかった」と。それを聞いて、この子は、ずいぶん成長したな、と思いました。まず、このことに気付いて、次には自分で行動に移せるようになってほしい、それが海外に連れて行く目的だったからです。
 また、タクシーの行き先を告げたり、ホテルでの電話のしかたなどを英語でこの子にさせていたせいか(どう話すかは説明しましたが)、「もっと英語を勉強したい。そして留学したい」とまで言い出しました。こうやって考えれば、高校3年間で学んだことより、この4日間の旅行で学んだことの方が大きいのではないか、とも思えるようになってきます。この子のように、大衆食堂の110円の雲呑麺を「おいしい、おいしい」と喜んで食べる事の方が、観光地を回るよりはるかに「修学」旅行としての意義を備えていると思いますが、みなさんはどう思うでしょうか。そういう意味では、この旅行は2人の卒業生にとっては、人生を生きていく上での大転機になったと確信できます。

香港と私

香港と私

 30年近く前(昭和58年頃)ですか、初めて香港に行ったのは。私の指には、初めて香港に行ったときに買った指輪が今でも嵌っています。最初の感動を忘れないためと、毎年エネルギーをくれる感謝の気持ちからです。この指輪を買うときに、どちら向きにこの指輪をするのか尋ねたことがあります。そうしたら、その質問に対する回答の後、おまえの英語はKing's Englishじゃない、American Englishだ、と言われました。我々が高校時代に学んだ英語はQueen's Englishなのに、King's Englishと言われたこと、またそれらではなくAmerican Englishと言われたことに驚きました。Queen's EnglishとKing's Eglishの違いは帰国して辞書を調べてわかりました。しかし、高校時代から大学にかけて学んだ英語ではないと言われたときはショックでした。英語の勉強は役に立たなかったのか、と。まあ、まじめな学生でなかったことだけは確かですが…。そこで、気が付きました。社会に出て本業で外国人と触れる機会が多くなっていたので、その実践から身についたのではなかろうかと。文法など学んだ内容はBritish Englishだけれども、実際に口をついて出るのは実践で身に付けた英語であることから、英語などの語学の学び方の一端がわかったように思いました。
 この当時の香港では、英語をしゃべることのできる人はやはりエリートに属する人たちでした。それでも訛りがきつく聞き取れないこともままありました。中国人と間違われて道を聞かれたこともあり(私の顔は中国系?)、いろいろ面白い経験もしました。日本の基準と香港の基準が全く異なることが面白く、それから毎年1,2回は行くようになりました。行くたびに、例えばバスを終点まで乗ってみるとか、トラムを終点まで乗ってみるとか、あるいはこの下町だけ歩き回るとか、いろいろ方法を変えたりもしました。九龍城の近くにある映画館で中国映画を訳もわからず見たり、バスで新界の方へ行ったと思ったら出発点に戻ってきて実は循環バスだったと気付いたり、いろいろ失敗もしましたねぇ。まあ当時は、英語の勉強もそうでしたが、異なる文化に触れるのが大変面白かったのだと思います。
 25, 6年前(昭和61,2年頃)には、夏になると私は必ず香港に行きました。35°Cで「暑い、暑い」と言っている大阪から、38°C、湿度90%の香港に来ると、どれだけ暑いことか。また、その中で香港人が汗を流しながらどれだけ動き回り、話し回って仕事をしているか、それを見ると大阪で「暑い、暑い」なんて言っていられません。こっちも頑張らねば、というエネルギーを毎年香港の人たちにもらってきました。至る所に物が溢れ、何もしなくともそれなりに生きていける日本、一方、必死に物乞いや売り込みをして一生懸命生きようとする他国の人、当然、どちらが生きようとする生命力が強いか理解できることと思います。今の日本に欠けているのは、そういう教育ではないのでしょうか。「一生懸命生きる」ことが豊かなあるいは贅沢な生活で忘れ去られ、いい加減な生き方しかできなくなっているのだと思います。
 ただ、毎回のように金属探知機に引っかかることには閉口しました。伊丹空港でもそうでしたが、特に香港の啓徳空港ではひどかった…。あるときなど、ベルトを外し、眼鏡も外しているのにブーブー鳴って、挙げ句の果てに別室に連れ込まれました。その部屋の壁がガラス張りで、他の乗客からは丸見えになっています。そこで、台の上に立たされて手探りで体中を触られ(女性の検査官だったからましだった)、金属探知機をあちこち当てられました。他の乗客がみんなこちらを見ていて、赤面の至りでした。だから、香港がイギリスから中国に返還されてからは、2007年までは一度も行くことはありませんでした(怖かったから)。その間、ハワイ・サイパン・グァム・アメリカ・オーストラリア・台湾・中国などいろいろなところに行きましたが、あまり得るところはありませんでした(エピソードはLinkIconこちら)。台湾では英語が通じずに日本語での会話になるし、ハワイ・サイパン・グァムでは英語で質問すると日本語で返ってくるし、アメリカ西海岸の英語はリエゾンはひどいし、俗に言う汚い英語が多く、特にヒスパニック訛りが強かったからです。オーストラリアも慣れるまで苦労したし、中国ではホテルのコンシェルジュだけしか英語が通じなかったこともありました。
 2007年に大学2年になった卒業生が言ってきたので、恐々再度香港に行くことにしました。イギリスから中国に返還されたので、金属探知機で別室に連れ込まれるだけでは済まないのではないかなどと心配したほどのこともなく、初日からspeakingもlisteningも十分で、昔と異なり、警官が英語で「May I help you?」と尋ねてきたことは驚きました。あれは、香港島のスター・フェリー・ピアが移転していて場所がわからずうろうろしていたときですね。そんな親切な警官には、香港ではそれまで会ったことはありませんでした。
 久しぶりに香港に行くと、啓徳空港はすでになく、海だったところが埋め立てられていて、新しい高層ビルがいっぱい建っていて、よく道に迷いました。やっぱり九龍半島の下町の方が向いているのかなぁ。
 これからも仕事が嫌になったり、逃げ出したくなると、香港に行って、向こうの人のエネルギーをいっぱいもらってきたいと思っています。

メッセージ

メッセージ

 今では香港は、高層ビル数が世界一の都市であり、長寿都市では世界第二位、西欧の投資家が判断する将来性のあるアジアの都市の第二位になっています。これからもどんどん発展していく都市です。
 一方、ビルすれすれに下りる啓徳空港はすでになく、スターフェリー乗り場にたむろしていた人力車、アバディーンの水上生活者やサンパン、トラムがすれすれに走る市場など、昔の香港をイメージするものがなくなっていくのは、寂しい限りです。こちらも広東語がわからないから、身振り手振りで路上のおばちゃんと値切り交渉をしていたのが懐かしいですねぇ。そういうのもなくなっていくのでしょうか。
 下町を別にすれば、たいがいの場所では英語が通じるようになり、警官に対する英語教育もしっかりするようになってきているようです。翻って日本はどうでしょうか。京都はわかるとしても、他の都市ではどれだけ観光都市としての自覚があるのでしょうか。
 香港の私立幼稚園では、3カ国語を教えたり、やはり英語熱は盛んです。子供が英語を身に付けられるチャンスを親が提供しているし、需要と供給が釣り合っているように思いました。日本では、英語を身に付けて仕事に就くということがまだ親の世代には浸透していないように思われるし、需要供給のバランスが崩れているように思いますが、どうでしょうか。香港が国際都市として発展するための要素を備えているのに対し、日本は意識の面でまだまだ遅れているように思います。というのは、国内でそれなりの生活ができればよいという感覚が主で、国際都市国家としての日本の発展を考えていないからだと思います。これも物が溢れたために、現状で満足して発展する必要を感じなくなったせいだと思いますが、皆さんはどう思いますか。
 自分一人で海外に行くときは、自分の英語力の訓練と、文化などの吸収などを目的としています。しかし、学校の修学旅行は本当に「修学」(学を修める)の意味を持っているのでしょうか。それゆえ、自分一人で行くときだけでなく、卒業生を連れて行くときも、必ずその地域の一般大衆と同じ食事や生活をしてみます。よい面だけを見せる観光に対して、その方がよほど役に立つと思うからです。逆にそうしないと、海外に行く意味はないのではないでしょうか。生徒・卒業生には、海外に行って、日本人がどれだけ贅沢な生活をし、それに慣れきってしまっている(鈍感になっている)かということだけでなく、文化の違いから日本の常識≠世界の常識ということを理解し、またそれを受け入れる民主主義としての奥の深さ、そしていろいろな考え方のあることを認める視野の広さを身に付けて欲しいと願っています。
 治安の悪かった九龍城がなくなりましたが、それでも女性の夜の一人歩きはよくないでしょう。でも治安に多少の不安があっても、大衆食堂や屋台で普通の人たちと食事をし、下町を歩き、昼間の働いている人たちを眺めるだけでも、香港に行く価値はあると思います。

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