このページは、犬のコラムのページです。お気に入りの写真を見ながら、読んでみてください。
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犬と人間のつながり
犬と人間のつながり
犬がまだオオカミだった頃、人間の食べ残した食物を餌としてもらう代わりに、その人間を守るために番をする、というギブアンドテイクの関係が生まれました。餌をくれる人間がいなくなれば、食べ物に困るからです。こうやって、犬と人間も助け合って生きてきました。その歴史を考えれば、純血種などのブランドにこだわる必要はないと思います。狩りのために作られた犬種もあれば、羊や人間の番をするために作られた犬種もあります。目的に応じて種を改変してきた人間に、自然というものに対する罪の意識や畏れはないのでしょうか。「自然を征服すべき絶対物」と見なす西洋文明が作り出した様々な犬種は、「自然と調和して生きる」日本古来の文明から見れば、生きものを人工的な産物に変えているとしか思われません。
しかし、もうすでに生まれてきた種に対して元に戻すことはできません。だからといって殺処分のように殺していくのはどうでしょうか。生きものには「種の保存本能」があり、「意識」というものもあります。確かに増えすぎれば、個体数の調節は必要でしょうが、「食物連鎖」の関係から、自然と元の個体数に戻っていくものです。特に犬は教育次第では、非常に人間の役に立つ動物です。現在も盲導犬や介助犬、聴導犬、救助犬や麻薬犬と言ったように人間の役に立っている犬は非常に多く、犬猫を殺処分にまわす人間がいるということは、無知の極みだと思います。法律(例えば民法や刑法)でペットなどの動物を器物扱いしていることが原因だとは思いますが、野良犬や捨てられた犬を教育していく施設を作るような政治が望まれます。
犬について
犬について
飼い主に忠実
- ただし、「アルファ」と呼ばれる飼い主が躾けや教育を施さないと、犬は本能に従って行動してしまいます。可愛いからと甘やかすと、手の付けられない乱暴な犬になります。飼い主が「アルファ」だということを必ず犬に教える必要があります。
飼い主の命令を待っている
- 犬は、それぞれに応じた職分を知っています。飼い主がその職分に応じた命令を与えると、犬は嬉々としてそれに従います。
教えれば覚えていく
- していいこととしてはいけないことの区別をはっきりと決めておき、そのルールに従って躾けていけば、必ず犬は従います。気分次第で変えてはいけません。
時には叱ることも必要
- 犬は飼い主の声の調子や表情だけで、飼い主の心情を読み取ります。だから、「叱る」と言っても、叩いてはいけません。ぐっと睨みつけるとか、声を少しだけ大きくするだけで十分です。
家の中で寝させること
- 日本では家の外で飼うのが多いのですが、できるだけ家の中に入れてやりましょう。自然と飼い主を守る位置につきます。また、フィラリアなどの伝染病の予防にもなります。
暑さに弱いので夏はエアコンを付けてやる
- 犬の先祖の狼はシベリア原産と言われています(諸説あり)。そのため、寒さには強いのですが、暑さには強くありません。そこで、夏場は家の中でエアコンなりで涼しく保ってあげましょう。
看板について
看板について
「ここでは犬に糞尿をさせないでください」という看板をよく見かけます。これを立てた人は、どれだけ変な日本語かわかっているのでしょうか。「〜させる」というのは、⑴使役の意味で強制を表す場合と、⑵放任の意味で許容を表す場合と、⑶尊敬を表す場合、⑷謙遜を表す場合の4通りがあります。
⑴強制的な使役を表す「〜させる」は直前の言葉を修飾するから、「犬に『糞尿を無理矢理させる』ことを禁止する」という意味になります。だから、「ここでは犬に糞尿をさせないでください」という看板の意味は、「ここでは犬に無理矢理糞尿を強制的にさせるのを禁止します」の意味となってしまいます。自宅ならともかく、いくら何でも無理矢理犬に公共の場で強制的にオシッコをさせる飼い主は皆無でしょう。いつ、どこでオシッコやウンコをすればよいかの躾ができていれば、ある程度の我慢を犬はします。してはいけない時や場所を犬は理解します。だから、強制させる意味がよくわからない? 付け加えて詭弁的に言えば、「無理矢理させてはいけない」ということは無理矢理でなければよいのだから、自発的にするのは構わないということになります。その場合は、「ここでは犬に無理矢理糞尿を強制的にさせるのを禁止します、ただし自発的にするのは構いません」の意味になります。文意からこれはあり得ないことですが、そういう風に受け取られても仕方のない文ということです。
⑵放任・継続の意味で許容を表す場合というのは、例えば「子供を公園で遊ばせておく」とか「ずっと寝させておく」などの例が挙げられます。この場合、看板の意味は「ここでは犬が糞尿をするのを許すことを禁止します」、あるいは「ここでは犬が糞尿を勝手にし続けるのを放っておくのを禁止します」という意味になります。前者の場合、飼い主が常識ある人間ならばそんなことはしないでしょう。常識がない場合や、野良犬の場合は別ですが、これが最も筋の通った意味でしょう。後者の場合は、すでにやっているのに止められはずがありません。
⑶と⑷は、対象が犬だからすでに誤った使い方になります。
ということは、⑵の前者「ここでは犬が糞尿をするのを許すことを禁止します」が、最も筋の通った意味になります。が、ここまで述べたようにいろいろな意味に取れる文章を看板にすること自体間違っていませんか。文章は簡潔明瞭に書くよう教育されているはずです。一通りの意味にしかとることができない文章が最も誤解を生じない文章です。この看板の文章は、何通りにとることができるのでしょう。特に「〜させる」の用法は、ほとんどの用法は「使役」です。誤解が生じても不思議ではないでしょう同様の例を挙げておきましょう。次の文はどんな意味でしょうか。「ここでは子供に大声を上げさせないでください」 不思議に思いませんか。違和感はありませんか。気色悪くありませんか。
ここまで考えてみれば、この短い文章がどれだけ誤解を生むのか、そんなこともわからない国語力の持ち主が書いたのか、と呆れてしまいます。普通の飼い主(躾をしている飼い主)に対しては、この看板は筋の通っていない失礼極まりない文章にあたります。まあ飼い主もみんながみんな常識があるとは思いませんが。常識のない飼い主ならば、当然そんな看板は無視するでしょう。これでは看板を立てる意味がないでしょう。しかも、人間を含む動物にとって、排泄欲は本能のひとつです。それを「させない」という表現は独善というよりも独裁的な意見だと思います。
一方、この看板は誰に向けて書かれているかを考えれば、当然、飼い主と言うことになるでしょう。では、野良犬はどうなのでしょうか。もし野良犬がその場所で糞尿をしていても、その責めを負うのは近くを通る別の飼い主になってしまうのです。この看板を立てた人は、野良犬の可能性を考えているのでしょうか。すべて犬の飼い主の責任だ、と言わんばかりの看板の文句に腹を立てるのは私一人ではないと思います。
私も犬を連れているだけで、「ここでさせないように」と言われたのは、二度や三度ではありません。だから、そのたびにこう聞き返します。「それでは、包丁を持っている人にあなたは『人を刺さないように』と言っているのですか。あるいは車に乗っている人にいちいち『人をはねないように』と言っているのですか」と。これらはすべて同じ事であって、可能性のあることはドライバーであれ、飼い主であれ、自覚していることです。それをいかにも自分だけがわかっているように他人に指示する独善的な考え方が危険ですね。こういう人たちが集まってできる「民意」という得体の知れない大きいものが非常に恐ろしいと、私は感じます。
あるときなどは、キナリが公道の並木の根元の臭いをかいでいるだけで、前の家の人から「しゃがんでいたやろう」と難癖を付けられました。最終的には謝らせましたが、動物に対する知識や理解のない人間や、心や考え方の狭い人間、自分の周りだけがよければいいという人間、自分の考えを他人に押しつける人間、自分だけが正しいと思っている人間が近頃は多すぎます。自分たちの家の近くに焼却場を作るな、葬儀場を作るなとか、反対運動をする人は、自分の家の近くの環境だけを考えて、自分たちの出すゴミや遺体がどこでどのように処理されているのかを考えていないのでしょう。みんなが助け合いをしなければいけない世の中なのに…。これが、権利ばかり主張する人間を作ってきた戦後の誤った教育の結果です。みんなが多少の不利益を被るが、不利益を不利益と思わず、それ以上にみんなに対してプラスの事柄が導き出されるから、「助け合い」なのです。そのちょっとした不利益を声高に反対と唱えている人たちは、それを自分たちの権利として主張していると思っているのでしょう。権利というものを誤解しているということを知らず、それらを正しいと信じていることの方が恐ろしいと思います、私は。
犬は一般に保育園児か幼稚園児ぐらいの知能と言われます。だから、ちゃんと躾をすれば、他に迷惑を掛けるようなことはしません。しかし、人間でも幼稚園児ぐらいまではウンコやオシッコを漏らすこともたまにはあるでしょう。その時は、大きな心で受け止めてあげる必要があります。犬も同じです。たまには粗相をすることもあるでしょう。それを広い心で見守るだけの度量が、最近はなくなっているようです。動物病院の動物看護師や保育園や幼稚園の先生などは、見守ることの重要性を知っています。それが「育てる」ということなのです。暖かく広い心で見守ることができないから、我が子の虐待がとどまるところを知らないのです。広い心で深く受け入れるような大きな度量のない人たちばかりになってきました。ギスギスした世の中になってきてしまいました。これらは、権利と自由、平等ばかりを強調する戦後教育の欠陥が生み出してきた産物ですね。間違ってもらっては困りますが、すべてが戦後教育のせいだと言っているわけでも、戦後教育すべてが悪いと言っているのでもありません。これらについては、また別の機会にします。
結論としては、前記の看板「ここでは犬に糞尿をさせないでください」という命令形(形は懇願だが)の看板は、犬の飼い主の反感をあおるばかりの表現になっていることを理解してください。犬の飼い主は、看板を立てる人以上に気を遣っています。それだけではなく、国語力のなさ、(自分の近くさえきれいであればよいという)独善的な考え方、常識のなさ、動物に対する理解のなさなどが、看板を立てた人に対して向けられていることを自覚して欲しいと思います。看板を立てるにしても、動物のことをきちんと学んで、獣医師や動物看護師の意見を聞きながら立ててください。私個人は、反感よりも文法的違和感の方が大きいのですが…。
別の看板では、表現の差こそあれ「犬の糞は持ち帰ってください」というものがあります。これは、おそらく獣医師の意見を参考にした看板だとは思います。糞をするのは生理的本能だから仕方がない、だからそのあとの注意事項として持ち帰ることを促しているのですね。あまり反感を買わない表現で、飼い主もある程度は納得できるでしょう。しかし、もし、そこに野良犬の糞があれば、やっぱり近くを通る(近所の)別の犬の飼い主が白い目や疑いの眼で見られることに違いはありません。その結果、近所づきあいが疎遠になってしまうこともあり得ます。そこまで考えているのでしょうか、看板を立てた人たちは…。看板さえ立てておけばいい、という浅薄な考えしかできない人も悲しい人たちですね。犬は、字が読めません。看板は犬には役に立ちません。逆に野良犬にとっては、ちょうどオシッコをするのによい柱だと思っているでしょうね。もし、人間の飼い主を対象にしているのならば、少々反感を招くだけでしょう。
では、どうすればよいのでしょうか。犬などの糞害で悩んでいる家庭は、それが野良犬なのか飼い犬なのか、ちゃんとデータをとるべきです。また、犬などの本能や習性について学んでください。そして、広く大きい心で犬と飼い主を見守ってあげてください。ただ最近の飼い主は、みんなそういう最低限のマナーは守っているので、おそらく野良犬だと思います。「犬の糞は持ち帰ってください」の看板ぐらいはよいと思います。野良犬の場合は、看板は無駄ですから節約しておきましょう。野良犬の糞ぐらい掃除するのに5分もかからないでしょう。それぐらいは、マンションの管理人の仕事だし、戸建ての場合でも隠れた善行になるのではないですか。野良犬も好きこのんで野良犬になったわけではないのですから、差別をしないようにしてあげてください。自分に子供が生まれたとき、おむつの交換をどうしましたか。我が子のウンコでも手づかみで処理しませんでしたか。それと同じです。きれいとか汚いとか言う前に、ウンコもオシッコも命の営みの結果です。その命の営みの結果ほど愛おしいものはないのではないでしょうか。
ここで、皆さんに質問です。前述したように、犬の知能の程度から保育園児と仮定してみましょう。あなたが保育園児の親とします。
あなたが保育園に通う子供を連れて歩いているときに、「ここでは保育園児に糞尿をさせないでください」とか「保育園児の糞は持ち帰ってください」という看板があればどう思いますか。
訴えたいこと
訴えたいこと
猫や犬に限らず、人間と動物、植物はお互いに助け合いながら生きていく仲間であり、生態系の一部をなす要素でもあります。だからこそ、「可愛いからペットを飼う」とか「癒されるからペットを飼う」ということには、私は反発を感じます。ましてや純血種とか雑種とかの区別(差別)は、最も嫌うところです。もし、人間で純血種や雑種といった区別をすればどうなるでしょうか。
ましてや「捨てる」という行為は理解できません。自分のこどもが気に入らなくなれば捨てるのと同義だと私は思います。まあ、最近は幼児虐待とかネグレクトなどが人間でもよく見受けられますが、動物に触れることで生物としての本能を人間は見直してもらいたいと思います。見ていると、犬や猫の方が現代の人間よりはるかに愛情深く、自分の子に対する母性本能は人間をはるかに凌駕しているように感じられます。
アメリカやヨーロッパでは、セラピーキャットとかセラピードッグとして、病院や老人ホームなどを訪問する犬や猫もいます。患者や高齢の方の精神を安定させ、血圧を下げ、自閉症患者の心を開かせたりする働きが認められているからです。犬や猫が人間に与えてくれるものは計り知れないほど大きく、逆に人間が犬猫に与える物のどれだけ小さいことか。
せっかく生まれてきた命だから、同じ生き物として差別をせず共に生きていく仲間として、捨てられていた猫や犬を引き取って面倒を見ています。家族として、仲間として、お互い助け合いながら生きてほしいと願っています。「可愛い」とか「癒される」という理由で動物に接するのではなく、同じ生き物、「地球家族」だと思ってほしいと考えています。
しかし、現在、犬が本能として走り回ることのできる場所がどれだけあるでしょうか。人間の都合で引き綱(リード)を付けなければ罰するような法律は、人間のエゴの極みです。そういう法律を作る前に、犬が安心して走り回ることのできる場所を作るべきではないでしょうか。そう、車に乗っている人はわかると思いますが、駐車場を作らずに駐車禁止の場所ばかりにするのと同じですね。猫についても同じです。他の動物でも同様です。高速道路で車にはねられる野生の生き物(タヌキ・キツネ・シカ・カンガルーなど)が多いということは、人間が自分の都合だけで世の中を変えてきた人間の傲慢さ以外の何物でもありません。最近では、熊が人里に下りてきたというニュースをよく耳にしますが、熊の生息地を狭めていった人間の罪はどうなるのでしょうか。自然保護、自然保護といいながら、生息できないようにしている人間の罪は裁かれず、なぜ動物だけが裁かれなければならないのか。そうやって人間は、自分にとって都合のよいように法律を作り、動物や植物を絶滅に追いやっていくのです。環境保護というかけ声と文明の発達は相反するもののように思えてなりません。
例を挙げてみましょう。開発した土地は法務局に登記されます。でも、それ以前に動物が自分のテリトリーとして持っていた場所です。動物が先に所有している土地を人間が侵略して、勝手に自分たちの法律に当てはめ、自分たちの土地に侵入してきたから射殺するというのは、どこかおかしいのではないでしょうか。漁業であれ、狩猟であれ、昔はバランスが取れていたものです。そのバランスを崩して、将来のことを考えずに捕りっぱなしや過剰に捕獲すれば、絶滅危惧種になるのは当たり前でしょう。これ以上、動物たちのテリトリーを荒らしてはなりません。 犬や猫だけでなく他の動物や植物も生存する権利があるし、生き残ることに必死になっています。ど根性大根という話題がありましたが、まさにその通りだと思います。人間以外の生物は生き残るのに必死で、人間が享楽を貪るようになったのはなぜでしょうか。いかに人間が人間以外のものに対して無頓着で思いやりがなく自己中心的であるか、もう一度考え直すべきだと思っています。
どうかお願いです。人間のわがままで飼ったり捨てたりしないでください。飼うのならば、動物について学びながら動物の気持ちになって、最期まで家族として接してあげてください。